鹿鳴館模型の舞踏会

鹿鳴館の歴史

文明開化の象徴的な建物である鹿鳴館。
このページでは「鹿鳴館の歴史」について、まとめてみました。

鹿鳴館 栄華の時代

『鹿鳴館』は明治16年(1883年)、旧薩摩藩島津家上屋敷跡(東京府麹町区内山下町→現在の千代田区内幸町)に2年半の年月と18万円の工費をかけて竣工。18万円という建築費は、当時としては破格の金額だったようです。

井上馨の誕生日に…?

落成を祝った11月28日は、『鹿鳴館』建設を推進した中心人物、井上馨外務卿の誕生日だったとか。
それってちょっと公私混同、職権乱用? 自分の邸宅じゃないんだから(笑) でも、それほど井上サンの思い入れが強かったってことでしょうか。

ジョサイア・コンドル、キミの腕を見込んで…?

『鹿鳴館』の設計を手がけたのは、イギリスから招いた若き建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)。
まだ20代だったコンドルに国の威信を懸けた迎賓館の設計を委ねるとは、ずいぶん思い切った決断をしたように感じますが、当時の日本においては彼が西洋建築の第一人者ですから。若きジョサイア・コンドルとしても、ここは腕の見せ所!と張り切ったことでしょう。

鹿鳴館の床がこわい…?

出来上がった『鹿鳴館』は建坪410坪、アーチ型の窓で飾られた2階建ての洋館。舞踏会場となる大広間や貴賓室、大食堂のほか、ビリヤード室まで備えてあったとか。
大広間は板張りだったので、大勢で踊るとかなり揺れたそうな。床がギシギシ鳴るなかでダンスをしていたんでしょうね。大広間は2階ですから、床が落ちるスリルを感じながらのダンスだったかもしれません。

『鹿鳴館』は、舞踏会や夜会などの催しや迎賓館としての宿泊目的だけでなく、上流階級の人たちのための西洋風マナー講座や慈善バザーにも使われていたようです。

鹿鳴館時代の終焉

時代を象徴する建物だった『鹿鳴館』ですが、華やかな時代はあまり長くは続きませんでした。

光が消えた鹿鳴館

明治20年の外務卿井上馨の失脚と共に、『鹿鳴館』は歴史の表舞台からひっそり退場していきます。
極端な欧化主義への反発から「鹿鳴館外交」は下火になり、その後二度と華やかなスポットライトを浴びることはありませんでした。
まさに、井上馨とともに生きた『鹿鳴館』って感じですね。

鹿鳴館の淋しいその後

その後の『鹿鳴館』はまるで余生のよう。
皮肉なことに、補完施設として建てたはずのホテル(現・帝国ホテル)が開業した明治23年(1890年)に『鹿鳴館』は閉鎖されています。淋しい交代劇ですね。そして、明治27年に華族会館に払い下げられ、昭和になってから民間会社(現在の大和生命保険→2009年破綻)の手に渡り、昭和15年(1940)ついに解体されました。
一時代をきらびやかに彩った『鹿鳴館』でしたが、主役の座を降りてからは人々の目にとまることもなく、静かに夢まぼろしのように姿を消したのです。

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